立夏
5月5日。
ツツジ、シャクヤク、ハナミズキ。
野球部が練習している裏グラウンド近くの用水路沿いを歩くと、八重桜に成り代わってそれらの花々が我こそはと咲き競っているのがわかる。
一年で一番良い季節だ。暖かい陽の下で体を動かしていると、体がはしばしまでよく動くことを実感できる。冬の間、凍えながら限られた条件で練習していた時とは段違いだ。
ゴールデンウィークもいよいよ残すところ2日。
部活を終えて、週末に他校との練習試合を控えた阿部隆也は、自室でじっくり試合用の配球を見直していた。
練習試合とはいえ、時間は有限。
一戦一戦が甲子園に続く道に続いていると思うと、明らかなテストマッチでもなければ負けるわけにはいかない。もちろん、明日の試合も勝ちを譲る気はさらさらなかった。
組み立てた配球のディティールを、プリントアウトした相手校のデータと照らし合わせながら一つ一つ確認していく。
そこでふと、心に引っかかるものがあった。
先程の練習では、片割れの投手と帰る寸前まで、練習試合の配球について打ち合わせをしていた。
その時は従順にうなずいていた三橋だったが、実際にマウンドに立ったら、この配球には首を振るのではないか。
そう思ったのは、阿部の準備したプランCの配球を見直した時だ。
このプランは、相手のビッグイニングを想定したものだった。その配球を頭から見ていくと、同じ打者の時、前の打席で見せた配球と全く同じ配球になっているポイントが2、3散見される。
三橋は一度打たれるとその回、打順、球種、球速、コースを精確に記憶する癖がある。それはもちろん、絶対に再び打たれたくない気持ちがあるからだ。
ピンチの時に、何回も首を振らせるのは得策とは言いがたかった。
気になり出すと、他のプランの配球の検討に入る前に、そこから先が考えられなくなってしまう。
阿部はスマホの時計を確認した。22時を少し過ぎている。
この配球で、大丈夫なのかどうか。
LINEで文面を打って三橋に確認しようにも、文章で阿部の伝えたいことが正しく伝わるかは微妙だった。
ーー直接聞いてみるか……。
スマホに手を伸ばそうとしたが、阿部はゆっくりとその手を引っ込めた。
通話して問いただすのも気がひける。
まだ自分たちにとっては遅い時間とはいえなかったが、ゴールデンタイムと比べると周りがやや静か過ぎる。通話の声が、壁を隔てて弟や、両親に漏れ聞こえるおそれがあった。
通話をためらう理由はそれだけではない。
なにせ、自分と三橋にはまだどうにもならない距離がある。
こちらから音声通話を仕掛けてみても、きっと三橋は簡単におびえるだろう。そして会話がきちんと成立しないに違いない。
もしかしたら自分の話し方や声色、その他もろもろが原因なのかもしれないが、はっきり言って会話中にいちいちそんなことを気遣ってはいられない。
どうしたものか、三橋とのトーク画面とにらめっこをしながら悶々としていると、ヒュポッ、ヒュポッと連続して通知音が鳴った。
「阿部君」
「たすけて」
何か考える猶予もなく、それを見た阿部は反射的に音声通話ボタンをタップしていた。
コール音が数秒。
その一瞬さえも阿部には、果てしなく長い時間に感じられた。
スマホから聞こえてきた三橋の声はひどく震えて、消え入りそうだった。
「も、もしもし、っ」
「レン!!大丈夫か、何かあったのか」
22時過ぎだということも何もかも忘れて、阿部は大声でスマホの向こうの三橋に向かって呼びかけた。
何か一生懸命に訴えようとしているが、三橋の声はカラカラに乾いたかすれ声でよく聞き取れない。どうやら、三橋はぼろぼろと涙をこぼしているようだ。
電話などではなく、今すぐに自転車にまたがって、三橋の家まで全力疾走したくてたまらなくなった。
数分後、ようやく話が少しは聞き取れるようになってきた。
三橋が打ち明けたのは、例によって予想の斜め上を飛んでいる話だった。
「本、よ……で」
「はぁ??本!?」
「うん。ゴールデンウィーク、入る前に、国語の、授業で、」
「うん」
「本、読めって、先生が……」
「はあ?????」
要約するとこうだった。
三橋のクラスを担当する現代文の教師は、まだ彼らが高2なのに小論文対策をちょくちょくさせようとするらしい。
その小論文対策のための授業で、三橋の組は図書室に集合した。
教師は、300ページ前後の1冊の本を借りて読み、まずは要約文を書くように指示を出した。
ノルマは400字詰原稿用紙に2〜3枚。それをゴールデンウィーク明けまでに提出しろというのが教師から出された課題だった。
三橋が選んだのは「50のバッテリーに聞いた甲子園」というルポルタージュ。
何も考えず、「バッテリー」「甲子園」というキーワードに惹かれて選んでしまったのだった。しかも、字が大きめで、漢字にはルビがふってあり、見開きの写真も多かったので、短時間で読めると判断したとのことだった。
「でね、最初のお話で、ピッチャーの人、肩、故障して」
「うん」
「高3の最後の夏で、県大、優勝したのに、夏大直前で、投げらんなくなっ……」
「……うん」
それから三橋は泣き崩れてしまい、阿部は再び辛抱強く次の言葉を待っていた。
いよいよスマホを投げ出したくなる。
眼の前にもし、三橋がいて、次々と涙をこぼしていたら。
手を伸ばして支えてーー
その後、俺はどうすればいいんだ?
三橋の嗚咽を遠く耳元で聞きながら、阿部は瞑目した。
眼の前でレンが泣いている。
いつかの、美丞大狭山戦の試合終了の瞬間を思い出した。
体全体で泣き崩れるレンの背を支えて、俺は、何を考えていた?
もし、身も世もなくレンが涙をぼろぼろとこぼしていたら、その背を優しく撫でさすったら、俺はきっと次の瞬間には堕落する。
だって、俺がその先に望むのはーー
「どうしよう、どうしよう、阿部君」
「…何が?」
「俺、もし、故障して、阿部君、甲子園、連れてけなくなったら……、俺、阿部君に投げらんなくなったら……」
「んなこと…あるわけねーだろ」
「ごめん、俺、わけわかんない、よね。でも、この本、リアルに書いてあって、俺、もしかしたら、そういうことも、あるかも、しれないって……」
「……」
「なんか、最近、カラダ、夜にミシッっていうし、コントロール、まだ、ちゃんと安定しないし、俺……」
阿部は眼を閉じたまま、妄想の中の三橋に手を伸ばした。
泣いて震える三橋の体を、その腕の中に抱き込む。
「お前は大丈夫だ」
腕の中の三橋がはっとして息を飲み、阿部を見上げた。
そのまま阿部は三橋のふわふわの髪を手で梳いた。
太陽とホコリの匂いがする。
「あべく……」
「大丈夫だ。お前は大丈夫だよ」
三橋が眼を細める。
そして額を自分に擦り付けてくるので、阿部は固く三橋の頭を胸に押し当てた。
大丈夫、大丈夫と繰り返しているうちに、三橋の呼吸が安定してきた。
「もう寝な。続きはいくらでも明日、聞いてやっから」
「ん…」
「おやすみ、レン」
それから後、三橋が返事を返すことはなかった。
阿部は静かに通話終了ボタンをタップし、スマホを放り出してベッドにごろっと体を投げ出した。
そういえば、暖かいので窓を開け放したままだった。
ジーーーーッ、とクビキリギスのセミに似た声が、暑苦しく外から響いてくる。
夏はもう目前だ。
時刻は23時半を回っていた。
阿部は窓を開けたまま、リモコンを手に取ってシーリングライトをオフにした。
自室の机には、配球のデータファイル、印刷した相手高のデータをクリッピングした束、スコアブックが散らかっている。
何の用件で通話しようとしたか、阿部はすっかり忘れてしまっていた。
眼を閉じると、ほどなくしてゆるい眠りがやってくる。
その夢の中で、泣き止んだ三橋が眼をこすりながら、はにかんだ笑顔を見せていた。
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