未来の嘘

アベミハ原作沿いです

ずっと、去年の最後の練習のあとのやり取りが頭から離れなかった。
部内恋愛禁止の話が出た時のことだ。
「あべくん、はっ、モモカンがスキなのか!」
あくまで、阿部の役に立ちたいという思いから、条件反射的に出てしまった言葉だった。
その場では阿部は困惑した表情を見せ、少しうつむいて考え込んでいる様子だった。
だが、帰り道で別れの挨拶を交わした時、彼は全くいつも通りだった。
野球部の練習をしている時は、辛い思いを忘れられるのだが、ふとした時に心がちくちくと痛むのを三橋は自覚し始めた。
どうしてだろう。なんで、あの時のことがいまだに忘れられないんだろう。
出会ってから今までずっと、阿部は捕手として三橋に徹頭徹尾尽くしてくれている。
それ以上に何を望む必要があるんだ。
そう思って、三橋は自分の心の悲鳴に耳をふさぎ続けた。


それが良くなかった。
年度が変わり、いよいよ4月1日。
来週には新学期が始まるというのに、三橋のモヤモヤは頂点に達していた。
苦しくて夜も眠れない日が続き、ついにたびたび練習中に集中力が切れるようになってしまった。
ようやく少しずつコントロールが安定してきた、とバッテリーそろって実感していた矢先だったのに。不可解なタイミングでボールがすっぽ抜けるようになってしまった。
投球練習中、10球目で放ったボールが大きく阿部のミットを反れた。
ボールがピッチングネットに跳ね返ってバウンドしたのを見て、すぐそばから大きなため息が聞こえる。
「今日はもう上がりな」
投手コーチの百枝利昭が三橋に告げると、阿部がマスクを外してプレートの方まで駆け寄って来た。
「まだ温まってないのかもしれません。もう少しいいですか」
「駄目だ。三橋を見てみな」
阿部が三橋の様子を伺うと、確かに少し元気がないように見える。アップしている最中は調子が良かったのだが……
「こりゃ、心の問題だな」
「は?」
「阿部、三橋を家まで送ってやりな。何か悩みがありそうだから、道々聞いてやるといい」
阿部は渋々承諾し、まだ練習中の部員を残して、二人はとぼとぼと自転車を押して歩いていた。
だが、案の定会話は弾まず、いつの間にか三橋の家に到着してしまった。
「お前、悩みって、何」
阿部が思い切って別れぎわに聞いてみたが、三橋は視線を合わさず、陰気に首を振るばかり。
「ちゃんと話せよ。力合わせて強くなろうって、約束しただろ」
「……」
「お前、俺を頼ってくれ、って自分で言っただろ。俺のことは頼らないのかよ」
「……」
それからいくら待っても返事が返って来ないので、阿部は諦めて三橋を置いて家に帰った。


阿部君のことで悩んでるのに、阿部君に相談なんてできるわけないじゃないか。


阿部の本当の気持ちが知りたくて、水を向けたりしたわけでは決してなかった。
恋愛の話が出た時、話の流れから自分が勝手に判断して、阿部に好きな人がいるなら役に立ちたい、応援したいと思って出た言葉だった。
「ーー俺はお前が好きだよ」
出会って間もないあの頃から、この言葉を忘れたことはない。
自分でも全く自覚しないうちに、身勝手な想いはひそかに芽を吹き出し、自分の預かり知らぬところで一人スクスクと成長していたらしい。
もしも、阿部君が1ミリでも俺を好きなんだとしたら。
その相手にモモカンがスキなのか、なんて言われて、平常心でいられるんだろうか。
阿部はずっといつも通りだ。
ーーそれは、自分に対して、気持ちがないということ。
これがもらい事故なのか。
こんなに苦しいなら、誰も好きになんてなりたくない。
毎晩苦しくて泣いてるなんて、誰にも知られたくなかった。もちろん、阿部自身にも。


人は苦しさで追い詰められた時、自分でも全く不可解な行動を取ってしまいがちだ。
夕食を済ませ、風呂から出ても、三橋の心は波立って少しも落ち着かなかった。
部屋のベッドにごろりと横になると、LINEの通知が入っている。
何気なくアプリを開ける。阿部からのメッセージだった。
「何かあったらスグに連絡しろよ」
「明日遅刻すんなよ」
ぼうっとしていたので、そのまま無意識にツリーを上にずらし、何件か確認したところで枕元にスマホを置く。
すると、そのスマホから軽快な音楽が鳴り始めた。
通話の呼び出し音だ。
あわててバッと画面を確認すると、「阿部隆也」と表示されている。
間違って阿部のアイコンをタップし、それから音声通話ボタンを押してしまっていたらしい。反射的に通話終了ボタンを押した。
ほっとしたものの、次の瞬間、「何か用?」と阿部からメッセージが入った。
「ワンコールって何」
「スゲー気になんだけど」
ど、どうしよう。
立て続けにメッセージが入り、三橋は真っ青になりながらワタワタとあわててしまった。
間髪入れずに着信音が鳴る。
阿部からだ。思わずキャイイーッと悲鳴を上げる。
しかしすぐに出ないと明日が怖いので、三橋は数秒迷ったのち、受話ボタンを押した。
「……はい」
「ーー何?」
「なん、でも、ナイ、ですっ。間違え、ました」
「なんでもないわけねーだろ」
「ごめん、なさい」
「ゴメンじゃねーだろ。ちゃんと話せよ。気になんだろーが」
ふと、部屋の壁に母親がかけていった今年のカレンダーが目に入った。
もうすぐ、4月1日が終わろうとしている。
その今日の日付の下には、「エイプリルフール」の文字。
そうか。
今日だったら、なかったことにできるんだ。
苦しいなら、今すぐ吐き出してしまえばいい。
冗談にできるのは、今だけだから。


「好き、です」
「ーーはっ?」
「俺、阿部君が、好き」
「……」
「ずっと、好き、でした。俺、駄目なんだ。阿部君に、ずっと、投げなきゃ、駄目なんだ。……阿部君と、ずっと、一緒にいたい。俺と、付き合って、ください」
三橋は息を詰め、ぎゅっと右手の拳を握った。
これから降ってくる言葉に備えるために。
「……からかってんの?」
ああ、やっぱり。
「今日、エイプリルフールだもんな」
「……」
そうだよ、ごめんね、って笑って返したいのに、涙があふれそうで、泣き声に気づかれたくなくて、声を出すことができない。
通話を切ろうとすると、それを察したかのように「待て」という声がした。
「寝るなよ。15分だけそのまま起きてろ。そしたら電話するから」
そのまま、阿部の方から電話が切れた。
いったいどういうことだろう。
ざわざわした気持ちのまま指示に従って起きていると、きっかり15分後に電話が鳴った。
「は、はい」
「お前のオヤいる?」
何故か、電話の向こうの阿部は息が荒かった。
「い、いる」
「起きてる?」
何か不審な気配を感じ、三橋は緊張した。
「起きてる。テレビ、見てる」
「わかった。ーー今、俺、お前んちの玄関の前なんだけど」
驚いて窓のカーテンを開け、玄関を確認する。
暗くてよくわからないが、確かに黒い影が玄関前のアプローチに立っていた。
「上着着てからこっちに来い。オヤに気づかれんなよ」


阿部の指示通り、クローゼットからグランドコートを取り出して羽織ると、三橋は足音を立てずに階段を下り、そっと玄関の引き戸を開けた。
そこには本当に阿部が立っていた。かたわらに阿部のシティサイクルが置いてある。
同じく部のグランドコートを羽織り、ジーンズ履きだ。思わず小さく叫んでしまった。
「う、うそっ」
この15分の間に、ダッシュで自転車を飛ばして来たのだろうか。さっき別れたばかりなのに、もう時間も遅いのに、どうして?
「しーっ!」
阿部はびっと人差し指を口の前で立てた。「静かに。お前のオヤに気づかれんだろーが」
「ご、ごめん。でも、なんで、来たの」
三橋が恐る恐る聞くと、阿部の表情がみるみるうちに険しくなる。小声で阿部は囁いた。
「ーーお前さ」
「うっ……」
「エイプリルフールだから、わざわざあんなこと言ったわけ」
せっかく勇気を出して、なかったことにしようとしたのに、わざわざ対面で確認してくる阿部が恨めしい。
「あれは、嘘なのか?それとも、本気か?」
「……」
嘘に決まってるだろ。だって、恋愛禁止だろ。
これが嘘にならなかったら、俺達、バッテリーじゃいられないだろ。


「じゃあ、わかった。エイプリルフールって嘘ついていい日だもんな」
三橋は、鼻水を啜りながら阿部を見上げた。
夜は薄曇り。今にも雨が降り出しそうな、湿っぽい風が緩く流れている。
自宅の門近くに植わっている白木蓮から、大きな花房が二人の間にこぼれて落ちた。


「俺はお前が好きじゃない。すごくメーワクだよ。だから、付き合わない。でも、野球部は恋愛禁止になったし、俺らは甲子園に行くんだろ。卒業しても、俺とお前は付き合わない」
ああ……
俺、フラれたんだ。
でも、良かった。これで吹っ切れて、明日からまた練習に集中できる。
ちゃんと、顔、上げろ。
阿部君に、聞いてくれてありがとうって、言うぞ。
三橋が顔を上げた瞬間、
何か温かいものが、唇をかすめた。
そのまま、阿部の声が心地良く耳に響く。
「未来への嘘な。覚えとけよ」


三橋が呆然としていると、「おやすみ」と声を残して、阿部は去って行った。
ぬくもりが残る、自らの唇に触れる。


あんな緊張した阿部の顔を見たことがなかった。
最後の一言を発した時、少し阿部ははにかんでいたようなーー


布団に入ると、ひとしきり静かに三橋は泣いた。
最近ご無沙汰だった安らかなまどろみがやって来た。
きっと、明日は昨日よりいいピッチングができる。

今日くれた言葉も、ちゃんと覚えていよう。
甲子園で優勝して、卒業したら、きっとーー


ゆっくりと、三橋の意識が遠のいていった。
明日と、ずっと先の甲子園に向けて。

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